二百三高地

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19世紀末。東南アジアを中心としたアジア地域は、欧米列強の植民地政策の嵐に見舞われていた。そして日本も独立国家としての道を探るべく、誕生間もない明治維新政府は朝鮮半島の支配権を目指していた。この動きは、ロシアの南下政策に真っ向から衝突することとなった。開戦か、外交による妥協かを巡り国内の意見は対立。大きな国力の違いのあるロシアには、早期決戦、早期講和によってしか勝つ道はない状況下にあった。明治37年2月4日。明治天皇は、開戦の決議に裁を下し、日露戦争の幕が切って落とされた。開戦と同時に日本軍は陸海共に破竹の進撃を開始するが、天然の要塞・旅順を攻めあぐね、戦況は悪化の一途を辿っていった。残された時間も僅かとなる中、旅順攻略の拠点となる二百三高地への決死の総攻撃が仕掛けられた。戦死者3,150名、負傷者6,850名の尊い犠牲を以ってして二百三高地は遂に陥落し、その1ヵ月後、旅順も陥落した。

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