死後、30年近くを経ていまなお世界中で愛され続ける偉大なる映画スター、オードリー・ヘプバーンの真の姿に迫るドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』。
4月24日(日)、都内で試写会が行なわれ、上映後のトークイベントに生前のオードリーと深い親交があったコーディネーターの加藤タキが出席。オードリーとの様々なエピソードや知られざる素顔について語った。タキさんは20年以上にわたって公私ともにオードリーと親交を結んできたが、そんなタキさんもこのドキュメンタリー映画を見て「『そういうことだったのか…。あぁ、なるほど』と納得したことが多々ありました」と初めて知ることが多かったと明かす。


さらに「ひと段落してお茶を…となった時、銀のトレイに乗った銀のポットでコーヒーと紅茶を、レモンもミルクも全部自分で用意してくださるんです。ひとりひとりに『コーヒー? ティー?』と聞いてくださって、そんなオードリーさんにみんな吸い込まれちゃうんです!」と世界的大スターでありながら、スタッフひとりずつに細やかな気遣いをする女性だったと語る。仕事の場に限らず、普段からオードリーは「ごく普通の方。ナチュラルでした」と明かすタキさん。2回目のCM撮影で、パリを訪れた際も「(パリの常宿に)朝の7時半に迎えに行くんですが、7時29分に下から電話をすると、7時30分20秒にはおひとりで、ルイ・ヴィトンのバッグを持って降りてらっしゃるんです。『お持ちしますよ』と言っても、『これは自分の荷物だから』と。本当に自然体で偉ぶることがなくて、それはこのドキュメンタリーでも出ていたと思います」と語った。ファッションに関しても「普段からとてもシンプルでした」とのこと。
ある時、オードリーから「相談に乗ってほしい」と言われ、何かと思ったら「寒波が来るので、初めて毛皮を買うんだけど、何を買っていいかわからない」とアドバイスを求められたという。オードリーは普段から毛皮はおろか「カシミヤでもないウールのコートを着ていて、『これが居心地が良いし、私には似合うから。毛皮は似合わない』とおっしゃっていました」と明かし、タキさんが映画の中で彼女が身に着けていた毛皮やアクセサリーがとても似合っていたと本人に伝えると「タキ、あなたは勘違いしてるわ。あれは映画の中のオードリー・ヘプバーンが演じているだけで、素のオードリー・ヘプバーンには居心地が悪いし似合わないわ」と言われたという。
一方のタキさんは、当時からたくさんのアクセサリーを身に着けていたが、オードリーはそれに対して「タキはいっぱい着けるのが良く似合うわ。THAT IS YOU.(それがあなたなのよ)」と言ってくれたという。タキさんは「自身の価値観を他人に押し付けるようなことはせず、『自分は自分。他人は他人。成熟した人間ならわかるわよね?』という方でした」とふり返る。


また、オードリーは晩年の人生をユニセフ親善大使の活動に捧げ、世界中の貧困地域を訪れたが、タキさんはオードリーが口にした忘れられない2つの言葉を明かしてくれた。ひとつは、世界的な女優である自身がユニセフ大使として募金活動に奔走すると、多くのお金が集まることについて口にした「私はそのために女優をやってきた気がする」という言葉。もうひとつは、バブル期に来日した際にホテルでビュッフェ形式で行われた歓迎パーティーでの言葉で、オードリーはパーティ会場の隅で、人々が食事を皿に盛る様子を見ながら、寂しそうな眼差しで「タキ、日本だけじゃなく、アメリカでもヨーロッパでも、みんな自分が取った食事を食べきらないうちに皿を置いて、次の食事を取りに行ってるわ。もったいない。私は残飯でいいから、全てを引っさらって、このまま飛行機でバングラディシュに行きたい」と語ったという。少し前に大使として訪れたバングラディシュで、オードリーは、ある子どもから、配給で配られた1個のコッペパンの半分を「はい」と差し出されたそうで「それを手にしたとき、私はこんな大きな愛情をもらっているんだと、それが大きな喜びになった」と語っていたという。

この日のトークでは、タキさんがオードリーから受け取ったという直筆の手紙も披露。亡くなる前年の1992年の8月の日付の手紙には、グラフィックデザインを学ぶ次男のために、日本のデザインの本を送ってくれたタキさんへのお礼や、おかげで次男が無事に卒業できたという報告、さらに「息子はちゃんとあなたにお礼状を書いたかしら?」という“母親”の顔をのぞかせる言葉がつづられていたという。その頃、彼女身体は既に病魔に蝕まれていたが、タキさんは「9月に入ってお電話をいただいて『ようやくユニセフの1年の予定が終わって、帰ってきたばかりで、1か月お休みだけど、10月からまた来年のユニセフの活動の計画を立てるわ』と言っていて、ひと言も『具合が悪い』といったことがおっしゃいませんでした」と述懐。
その後、タキさんは年末にクリスマスカードを送ったが、例年ならすぐにお礼の連絡をくれるのに、何の音沙汰もなかったことからおかしいと思って電話をし、そこで彼女がアメリカにいることを知り、息子と連絡を取って、病気であることを知らされたという。それでも、タキさんはそこまで症状が重いとは思ってなかったという。1993年1月20日にオードリーは63歳でこの世を去ったが、タキさんは「21日の朝にラジオをつけたら、彼女の曲が掛かっていて、(死を知り)本当にびっくりしました…。早すぎて…。心を痛めるというのは、ストレスになり、病を引き起こすことになるんですね。よく(恋人の)ロバートさんが『休ませなきゃ』と言ってましたが、そういうことだったんですね。いま、ご存命だったら、ウクライナのことを彼女はどう感じて、どういう行動をとっていらしたかな? と思います」と声を詰まらせながら、語った。
トークの最後にタキさんは、オードリーが無類の親日家だったことにも言及。欧米のスターを迎える際にも控えめな態度だと聞いていた日本のファンが、熱狂的に出迎えてくれたことを非常に喜んでいたそうで、タキさんは「ある時、彼女は私に『タキ、私は前世で日本人だったかも。それくらい、日本が好き』と言っていました」と語り、死後30年近くが経ったいまでも映画雑誌などの好きな女優ランキングでオードリーが上位にランクインされることについて「日本のみなさんは、どこかで彼女の本質を見抜いているんだと思います。いまでも、こうして彼女の映画にみなさんが集まってくれることを、とってもお喜びになると思います」と語っていた。
5月6日(金)TOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国公開